昭和45年6月16日 朝の御理解     (末永信太郎)   №45ー熊02

御理解第84節
 おごりがましいことをすな、ものは細うても、長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でもしだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。


 お道の信心は肯定もなからなければ、否定もないと言われております。まさしく、そうでなからなければならんと思うですね。肯定、そして否定もない。いわゆる、どのように例えば信心が出けておりましても、これで良いという事はないということですよね。いわゆる、これで済んだとは思いませんという。
 私はこの、84節を今日頂いてから、そのことを一番に思わせて頂きました。私どもが、その、いわゆる、肯定。ね。これだけのことが出けておるとか、これで良いというようなものが出けてくる時、道に草を生やすようなことになるのではなかろうかと思います。ね。
 いわゆる、これで済んだとは思わないということですね。まあ、第三者から見たら、もう、一端の信心が出けておられる。もう、貴方のような真似は出来んと言われるような信心が、よし出けておっても、本人自身は、いえいえというものが本当になからなければいけんのじゃないでしょうか。これで、済んだとは思わない。限りなく踏み広げて通る繁盛のおかげを頂くためにね、どうでも、その、まあ、精神というかね。
 そういう信心姿勢というものが出けておらなければいけない。昨夜の御祈念の後に、まあ、聞いてもらったんですけれども。どうも、この頃、私自身の信心に何か肯定したもの、これで良いといったようなものがあるのではなかろうか、と。自分で、まあ、半生してみた訳でございますけれども。
 この頃は、あまりにも神様が私を大事にして下さる。大事にして下さるというより、まあ、言うならおかげの頂きすぎのような感じがする。もう、いろんな意味でね、それを感ずる。そういうおかげを下さろうと、まあ、しておる。また、下さってあるのに対しましてね、私が一つもこの頃、精進していない。ね。
 言うなら、おごりがましいことをすなと仰っておられるが、この頃、私はおごりがましゅうなっておるような、まあ、気がしきりにするんです。ね。昨夜も私、御神前に出らせて頂いて、本当こう、御神前を見せて頂いてね、もう、(がんまえ?)に。
 お供えが大きなお三宝に、言うなら、堆く盛り詰まれて、お供えがしてある。もう、甘な辛なは言うにおよばず。ね。甘い物、辛い物が言うに及ばず、もう、最近、私がたくさん飲み物を飲みますから、あん中に、あの、(   )何とか、みかんのジュースですね、がいっぱい。もう、本当にいっぱい。
 それから、トマトジュースが両脇にいっぱい。ビールが両脇にまたいっぱいというようにですね、私がその、欲する物というかね、欲しいと思う物が、もうそこに、こう、手の届くところにいっぱい置き重ねてあるという感じ。ほれで、決して神様が召し上がるのじゃないですからね。
 言うならば、私に下さろうとしておる、あれはおかげですからね、神様が。そういう、例えば中に、これはもう、食べ物とか飲料とかというだけの事ではありません。もう、最近、もう全てのことがそうなんです。ね。ですから、もう、つい、おごりがましいことをしておっても、おごりがましいと感じんほどしになっておるのではなかろうか、おかげを頂きすぎて(ふとすな?)感じが、いわば私の心の中に、そういう、言うならば秋風がこう、スッとこう、吹き抜けて通るような感じ。
 ほれはあ、大変だろう、と。ね。最近の自分の信心というものが、一つも進展していない、進歩してないのにも関わらず、神様に大事にされることは、もう、十二分な、まあ、ことをして頂いておる。それが、もう、当たり前のようなことになっておる。その当たり前のようなことになっておるという、その心そのものがね、もう、おごりがましい心だと、私は昨夜気付かせて頂いたんですよ。ね。
 当たり前、と。そこには、もうすでに肯定してるわけです。ね。このくらいな物も頂いたっちゃ当たり前。ね。だから、当たり前というところには、もちろん、いわゆる、感謝の心もいよいよ希薄なものになっ参ります、薄くなってきます。どれほど信心が出けたと言うても、ね、これで済んだとは思いませんという、いわゆる、信心。ね。肯定のない信心。
 そこにはね、例えば、しだいに踏み広げるということになるだろう。また、踏み広げるところに草を生やすようなことはないだろう。一粒万倍と言おうが、一人がおかげを受けたので、千人も万人もおかげを受けるようになるから、良い手本になるような信心をせよ。はたして、良い手本になるような信心をさせて頂いておるだろうか。なるほど、おかげを頂いて、千人も万人もおかげを頂くような、おかげだけは頂いておる。ね。のに関わらず、果たして良い手本になるような信心をしておるだろうか、と。
 今の私どもを見習いどもしなさんな、と。まあ、言うならば、言うような感じの信心しか出けていない感じがする、そう思う。これは、何とか一つ、何かここにきっかけを頂いてですね、今までと違った信心を指せてもらわなきゃならんな、と。
 でないと、お道に草を生やすようなことにもなり兼ねない、と。第一、当たり前と思うておるようなことの中にです、おごりがましいという心があるんだと分からせて頂いたが最後、これは、当たり前と、ね、といったような考え方を一つ本気でそこに取り組ませて頂かなければならない、という風に昨夜から色々思い、いわば次の信心の手がかりというものをです、見極めて行こうと勤めておるような次第でございます。
 本当を言うてもです、やはり、自分の信心というものが、その次の信心に飛躍して行く時には、やはりそこに手がかりというかね、足がかりというものがなからなければなりません。まあ、おかげを頂いて、まあ、早期発見というかね。早くそこに気付かせて頂いたことを、自分で、まあ、有り難いと思います。
 まあ、そこでです、これは、今、私のことでございますけれども、さて、皆さんの場合はどういうことになっておるだろうかという。ね。神様が皆さんの願うておられるというか、ね、そういう願いが成就しておるだろうかと、叶えられておるであろうか。ね。
 例えば、なら、私が頂いておるようにです、それこそ贅沢、まあ、言うならばしようと思えばですね、もう、無理せんでも贅沢が出ける。ね。いわば、手の座っておって、手の届くところに全ての物があるという感じ。甘い物が欲しいと思やあ、こう。辛い物が欲しいと思やあ、こう。ね。素晴らしい着物が欲しいと思わんでも、もう、目の前に現われておるとか。ね。
 もう、そうですね、やはり恐ろしいほどしにおかげを受けておる。ね。そういう、まあ、おかげを頂いてです、私が本当、その気付かせて頂いておること。はあ、これは大変だぞ、と。神様がおかげを下さりすぎよる。これが当たり前のことにでものように思うて来たら、ね、これは、いよいよ、それこそおかげを落とすぞというようなものを感じて。そこに気付いて、次の信心の手がかり、足がかりを求め掴んで行く。
 言うなら、立ち上がろうともしておる訳です。ね。そこで、なら、この、皆さん場合はどうだろうか。まあだ、そういうおかげを頂いておる人はないと思うんですよね。にも関わらず、どのようなことになっておるだろうか。ね。遠い所にあるものでも、そこまで行ってからでも、それを求めようとしたり。踏みつぎを持って来なければ取ることも出けないような所にでも、踏みつぎを持ってでも、取ろうとしたり。ね。
 そういうような、例えば、もし気配が、ね、あるとするなら、これは大変なことだ。おかげを受けんなり、終えなきゃならんような感じ。ね。いわゆる、借金をいっぱい持っておりながらでも、まあだ、身贅沢のことにばっかり目がくらんでおるような生き方なのです。ね。
 昨日、ちょうど四時の御祈念を終わって下がっておりましたら、伊万里から5~6人お参りがあっております。で、今来たから、控えで会わせて頂いたんですけど。最近、お寿司屋さんを開店して、非常におかげを頂いて、まあ、繁盛しておる。ね。そこで、その、小僧さんを一人雇いたいという、この頃からお願いがあっておった。ところが、その、小僧さんを雇いだしたけれども、その小僧さんがあんまりお客さんからも評判が良くないし、あんまり良くない、と。
 まあ、それでも、まあ、お願いをして頂いた小僧さんだからと思うて、まあ、大事にしておったけれど、もう、しばらくおって、まあ、お家に帰ったんでしょう、いなくなってしまった。それで、まあ、そのお家からは、まあ、どうでもまた使ってくれと言うてでも、本人が働く意思がなさそうだと、こう言うです。
 そこで私、申しましたことですけれどもね。これはね、もう一時あなた方夫婦でね、一生懸命頑張らにゃいかんとよち。まあだ、あの、小僧さんは必要じゃない。ね。お母さんは女中さんがわりをする、主人が、まあ、小僧がわりもする。ね。そして、信心の徳を身につけさせて頂いてです、ね、自然に例えば神様が下さる、あなたの手になり足になりする人が、来る時期を待つがよかろう。まあ、しばらく忙しかろうけれども、もう、そがしこ楽にはなろうけれどもね、もう、一時ばっかり雇うということを断念したらいい。
 そして、もう、つう一杯、働かせて頂いておかげを頂いたがいいですよ、と言うて申しましたんですけどね。これなんかは、まあ、私が、今、今日皆さんに申しておりますような、まあだ雇うがたないと神様が言うてござるものを私が感じたから、そう、まあ、言うたわけですよね。
 だから、あなた方の信心をもう少し高めて行ってごらん。それこそ、勿体無いように、気の付く小僧さん、よう働く小僧さん、お客さんからも喜んで頂くような小僧さんがね、かえって来るだろう。かえってあなた、三人になったらお客さんがかえって減った。もう、あげな小僧がおんなら、もう、言うてお客さんに評判が悪かったと、こう言うわけです。ね。
 だから、そういうことを神様は教えて下さったんだと思うから、しばらく夫婦で、まあ、頑張りなさい、と。ね。と言うて、御取次をさせて頂いたんですけれどもね。今日、私が言おうとしてることは、そういう生き方なん。ね。そういう生き方でね、一つ進んで行きなさい。ね。
 百円の収入があったら、百円以内の生活。それにも関わらず、二百円の生活をしようとするところに、そこに破綻がある。そういう生き方ではね、いつまで経っても、いわゆる本当の意味においてのおかげが頂かれん。ね。私はもう、ね、言うなら、本当におごりがましいと思われるくらいな、一つ、まあ、生活がね、出けるおかげを頂いてもらいたいと思うです、皆さんに。ね。
 おごりがましいことをすなと仰るが、そのおごりがましい事でも出けるくらいなです、おかげを先ず頂いて、頂きたい。それに、まだその、ね、おごりがましいことは出けない身分でありながら、人を雇おうと思うたり。ね。必要以上の物を買うたり、食べようと思うたり、着ろうと思うたり。ね。これではね、もう、道に草を生やし続けに生やして行かにゃん。踏み広げることは絶対出きん、そういうことでは。ね。
 例えて今申しますと、そのお寿司屋さんの例を持ってするとですたい、夫婦二人の者が、一端の忙しい中にです、例えばして行くならです、もう、そこには草の生える余裕がない。ね。そうでしょう。小さい道に、あぜ道なんか、ね、あぜ道のように小さい道を通りが沢山多かったら、それだけで道に草は生えませんでしょうが。それを、広うしようとするから、さあ、草取りを(   )。ね。
 手も揃うとらんとに広げようとするから、やり損なう。ね。だから、細うても長う続く。細うてもね、踏み広げる、しだいに踏み広げて行く。二人の通れよったのが、三人通れるようになり、四人通れるようになり。ね。そこに、いつも一端の信心ということが、ね、出来る。
 それでなおかつです、一端の信心が出けておるから、それで、んなら、これで済んだとは思わんという生き方。これで済んだとは思いませんという、いわゆる、教祖様の御信心の進め方。人間凡夫のことでございますから、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりませんという生き方。ね。そこには、これだけの信心しよるから、このくらいなことは、もう当たり前といったような、言うなら実意を欠いだ考え方やらは微塵も起きて来ないだろう。
 ところが、なら、私のように今度は、ね、おかげを頂きすぎておることを気付かずにです、ね、おらせて頂いとる中に、自分が肯定しておる自分をそこに発見して改めてです、次の信心にどうでも必要な手がかりを、または足がかりを心の底からそのことを思い、そのことを考えさせて頂いておるというような次第。ね。と、私の、まあ、最近のいわゆる信心をね、聞いて頂くと同時に、なら、皆さんの場合のことをね、まあ、この84節から、今日は頂いたんです。ね。
 どうでも一つ、細うてもいいて。夫婦二人で一生懸命働いておる時で、ね、そこには草一本生やさんで済むほどしのおかげを頂いて、3人になり4人になり、5人、20人になって行くようなおかげを願うということがです、道に生やさんで済むようなおかげが頂けれる、私は基礎土台になるのじゃないだろうかと思います。それでなおかつ、ね、これで済んだとは思わないという生き方。ね。
 細うても長う続かねば繁盛ではないと仰せられます。ね。細うても長う続かなければ、それは何、まあ、やりっぱなしの生き方でですね、時々は当てるということもあります。ね。言うなら、大ぶり式的な生き方でです、当てるということもあります。けれどもね、それは決して長う続かないです。だから、細うても長うつづく信心。細うても長う続くということは、細うても長う踏み広げて行くということが繁盛じゃと仰るのですから。ね。本気でこの辺のところに、いわば着眼した信心。そういう生き方をです、身につけて行く。ね。それは、信心のない人達はです、派手にパッとやっておるというようなところもあろうけれどもです。ね。それが出けれる、本当の出けれる内容を頂いてからで遅くはないて。
 がっちりと、一つ、その辺のところをですね、取り組ませて頂いて、信心を進めたい。ね。踏み広げて行く。ね。細うても長うつづかねば繁盛ではない。細うてものところを通らずに、いかにも繁盛をしておるようにあるのは、私はほんなもんじゃないて。ね。いわゆる、次第に次第にです、ね、踏み広げて通らせて頂く、そういう信心をね、身につけたい。
 私も、ね、私は昨夜から、昨夜もそのことを、まあ、申しましたが、気付かせて頂いてから、本気で一つ、次の信心の飛躍をね、心がけさせて頂きたいと思う。そこで皆さんもです、皆さんの今度は立場で、ね、しっかり、まあ、少し例えて今言うように、ね。番頭さんが、まあ、二人おるならですよ、まあ、(      )。けれども、どうも草が生えよるごとあるならです、一歩(ひがって?)ですね、二人を一人にしてからでもです、ね、道に草を生やすようなことのない生き方から、始め直させて頂くところがね、大事じゃなかろうかと思います。どうぞ。